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超現在訳 般若心経
ブッダは、地球上のすべての生き物が、苦しみから抜けることができて楽しく生きられるよう願っていた。
もし、誰かが困った時には、助け合うような世の中にしたいと。(仏の慈悲心)
そのために、何年も修行や瞑想を続けて解決方法を探求していた。
この日も、弟子たちと一緒にブッダは、瞑想で覚りを得ようとしていた。すると、瞑想の中に観音菩薩が現れて、観世音菩薩が「空の覚りを得て一切の苦しみから抜け出ることに成功する」様子を観た。
この様子を弟子たちに話すと、一番弟子の舎利子が、「私たちも観音菩薩のように覚りを開くにはどのようにすれば良いのでしょう?その方法を教えてください。」とブッダにお願いした。
すると、ブッダは次のように答えられた。
「一切の苦しみから解脱するには、空を覚らなければならない。」
※空の概念は難しく、これまではブッダが説いても誰も理解できなかったので、空を説くことは半分諦めていた。しかし、賢く積極的な舎利子からのお願いだったので、教えることに。
舎利子「空とは無のことですか?」
ブッダ「空は無ではない。この世とあの世のすべてを包み込む概念だ!」
舎利子「すべてを包摂するということは、あの世(見えない世界)も有るという意味ですか?」
ブッダ「そうだ。我々はその空の世界に生きているんだよ。」
舎利子「たとえば、どのようなことですか?」
ブッダ「人は何のために生まれて来たのだろう?という人もいれば、人は目的など持って生まれて来ない。という人もある。
また、人は死んだら霊界(地獄や天国)へ行くと言う人もいれば、人は死んだら灰となり無くなるという人がある。
それだけではない、神様は存在するという人がいれば、神や霊などはない(科学で証明しないものは存在しない)という人もある。
これらは、どれも間違っていない。というのは、それを信じる人にとっては、それが事実だからだ。」
舎利子「信じている側の人にとっては、自分の見えている(信じている)ことだけが真実だからですね。」
※民主主義では、「多数を占める考え」を正しいと信じる傾向があるが、数が逆転すると考えが変わる。
ブッダ「空で起きることはそれだけではない。人は目の前に見えるものだけが存在するものと思っているが、見えている物質はいずれ無くなるので、そのまま「永遠に続く」と期待してはいけない。(自然法則…生まれる、成長する、死ぬ。)
※物質によっては、形を変えて新たな物体になる。
だから、今ここに在る物体(人・もの)や現象が、明日もあるとは言えないんだよ。その証拠に、過去にあった(人・もの)が、その時のまま存在しているものなどないだろう。
過去は単なる記憶(思い出)であって、すでに形を変えているし、現在あるもの(人・もの・現象)も形や価値を変えずに未来に持っていくことはできない。形あるものは絶えず変化する。
※不動産やお金の価値は外部からの影響で変わるが、人間の価値は、その人の努力で変えることができる。自分の価値を高めようとするのは賢い人だ。
空は宇宙(地球)を包み込んでいる世界だ。そのため、宇宙(地球)という箱の中では、水や空気が増えたり減ったりすることはない。それに、物体は分解されると原子やエネルギーになるが、化学変化や部品を組み立てることによって新しい物体が生まれる。
※人は死ぬと灰になるが、鉛筆の芯とダイヤモンドは、同じ炭素からできている。違うのは、炭素原子の配列だけ。同じものでも配列を変えると、全く別のものになる。
また、生物(動物・植物)は、食物連鎖によって命が繋がっている。
※変化に対応できない生き物は絶滅するが、宇宙全体の命(エネルギー)が減ったわけではない。
このように、地球に存在する物体は、どこかで命(エネルギー)として繋がっているんだ。これを縁と呼んでいる。
命(エネルギー)の繋がり(縁)は、条件が合うと燃焼を起こす。その結果として新しい命が生まれるが、同じことが脳の中でも起きているのだ。
思考や妄想は、縁(引き金が引かれると)によって燃焼すると感情が起きる。ところが、感情は本能(不快を避けて、快楽を求める)から起きることを知らないといけない。
※縁起…因→縁(引き金)→感情→行動→結果→感情
恐い出来事が起きても、心臓が破裂しそうなくらい悩む人があれば、理性(智慧)を働かせ冷静に考えられる人がある。
縁起によって生まれ出る結果は、善因・善果、悪因・悪果というように、原因は条件(引き金)ではなく、もとはと言えばその人が持っている因と縁に原因がある。これが、空の一部だ。」
舎利子「これでも、一部なんですか?それじゃ、残りの空は何ですか?」
ブッダ「空が作用しているのは、物質だけではない。心と脳にも空が働いているんだ。五感で感じるものも、心で感じるものも、すべてが空に包まれている。
だから、見えているもの、聞こえる音、においも味も感触にもすべてに空が作用する。心に思うこと(思考やイメージ)や感情も同じく空だ。
その証拠に、人の思考や行動は、状態(体調と気分)によって、ころころと変わる。これを脳に実体があると言えるだろうか。」
舎利子「それでは、今私に見えているものは、幻だということですか?」
ブッダ「幻じゃない。今見えているからといって、それを鵜呑みにするのは良くないことだが、そのように見えていることを「認識する」ことが重要なんだよ!」
舎利子「瞑想して妄想(煩悩)を俯瞰することが大事なんですね。」
ブッダ「そうだ、人は、妄想(煩悩)自体を自分だと信じてしまっているんだ。それを知らないため、妄想(煩悩)から生まれた心を基準にして、他人や物事を判定してしまう。だから、多くの問題をつくる。
人が腹を立てるのは、「自分の思い通りにならない」からだが、その原因は、我への愛着(エゴ)だと知らないといけない。
しかし、地球人である我々は、自己を中心に物事を考えるのではなく、地球全体の利益になることを優先するようになると、おのずと正しい判断ができるようになる。」
舎利子「地球人として考えると、智慧が出るようになるということですね。」
※幸福…(自分を含む)地球に住む全員が幸せになること。
ブッダ「そのとおりだ。空を覚ると、悩みがなくなり、死ぬことの恐怖もなくなる。ところが、煩悩は消えても生まれるものだから、また、あらたな悩みに苦しむことになる。これが現実だ。
そして、苦しみから抜け出るために、昔から、多くの僧が修行して苦からの解脱方法を覚り教えを説いた。」
舎利子「質問があります。ブッダの教えは一つですが、現在残っているブッダの教えは、解釈した僧によって意味が違います。「どれが正しい教えなのか?」見分け方を教えてください。」
ブッダ「どれも正しい!それはこう言うことだ。それぞれの時代によって生きている環境が違うから、人のニーズも違うし、解釈が違って当然だ。
※貴族時代、戦国時代、貧しい人、裕福な人、忙しい人、時間に余裕のある人、それぞれの立場で解釈するから、元が同じでも違う教えが生まれる。
しかし、人々を「苦しみから救うために自らの命を懸けて得た智慧」だから、どれも素晴らしい慈悲の結晶と言えるだろう。だからと言って、その智慧は、そのままでは現在に役立たないかもしれない。
人を幸せにするには、先人の智慧(変化した経典)を臨機応変に使い分けることも必要になるかもしれない。」
舎利子「どれも間違っていないから、どれを信じてもいいということですか?」
ブッダ「それも違う。仏の心は慈悲が基本だ。いかに素晴らしい教えだとしても、他を非難したり、責めるのは、慈悲に反する行為だ。空の世界に在る限り、他を認める優しさが必要だ。慈悲が無い教えは、いずれこの世から消えて行く運命にある。」
舎利子「平和な世を創るためには、中道が大事ということですね。」
ブッダ「そうだ。そして、正しい教えかどうかを判断するときのポイントは、その方法で本当に「無明を明に」できるかどうかだ!
無明とは暗い闇の世界(暗い心)を言うが、無明は何をしてもむなしい・寂しいという心の状態を言うんだ。
だから、人は暗い心を晴らすために、遊んだり、やりがいを探すが、それらを達成した後には、抜け殻のようになり、また暗闇に戻ってしまう。
※一時的な楽しみ…お金、スポーツ、音楽、恋人、友達、地位、名誉、生きがいなど。
「教え」で大切なのは、苦しみから脱することができ、「本当の幸福」を見つけられることだ。人生の暗闇に一条の光が差すと、おのずと智慧は湧き出てくる。
智慧は煩悩をコントロールすることが出来るし、心が清浄になると、自然と慈悲心が湧いてくる。そのように人間は出来ている。
しかし、覚えておいてほしいのは、煩悩と慈悲は表裏一体だということだ。だから、今日は慈悲の心でも明日は煩悩になる。それが空だ。」
※煩悩即菩提…煩悩を察したら、「覚りのチャンス」だと考える。
舎利子「分かりました。もう一つ教えてほしいことがあります。人は「死が近づいたとき」にどのように「死」に立ち向かえば良いのでしょうか?」
ブッダ「若い時は、老いや死は実感がないから、死への恐怖がないかもしれない。だから、勢いのある若者は、「死なんか怖くない!」と言うかもしれない。
ところが、いざ自分が癌になると、「どうして私がこんな目に!?」と冷静さを失うものさ。
しかし、健康と死は表裏一体だから、人はいつ死んでもおかしくない。
もし、死に直面した時には、遠慮しないで「神様助けてください!」と(自分の信じる信仰に)念願すると良いだろう。信じるものがあり、それにすがることで「恐怖」という苦しみから助かるのであれば、「助けてください。」とお願いすれば良い。
「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」と唱えるだけで、心を落ち着かせ恐怖から脱することができるかもしれない。
しかし、今私が説いている真理を理解することができたなら、その功徳(慈悲の効果)は果てしないものになるだろう。
このようにして、様々な仏の教えがあるのは事実で、是非を決めるのは人の心だ。
※信仰の種類…他力本願・自力本願、上座部・大乗、禅、念仏、修行、など。
様々な種類の信仰方法があるが、信仰も空ではすべて「仏の慈悲」に包摂される。だから、信仰(方法や宗派)などというものに囚われてはいけない
仏が願うのは、「地球上のみんなが幸せになれること」だからだ。
過去の仏や菩薩は、みんなが幸せになること(慈悲)を最優先してきたから、最高の覚りを得て崇められている。
しかし、末法の現在に菩薩と呼ばれるのは、自分の得意な分野で「人を幸せにする」ために働く一般の人達でなのである。
※菩薩…宗教家だけでなく、科学者、農業、医療、生産者、発明家、音楽、芸能、スポーツ、販売、などすべての分野の達人を目指す人。
得意なことがなければ、自分の一番好きな事をやり、他人を喜ばすことに熱心になりなさい。今できることをやるのが覚りへの近道だ。
人を幸せにするために尽力する者は、現在においてその恩恵を受けるのはもちろんだが、未来の子孫の役に立ち、あなたがした貢献の足跡はずっと後世に残るだろう。
もし、あなたが、人を幸せにするために情熱を傾ければ、今までに見たことのない覚りの境地に立つことが出来るに違いない。
覚りの境地に行くためには、「ブッダの教え」を学び研究する、生活や体験から学ぶ、修行して覚る、大乗(布施)の実践などが必要になるが、真言(呪文)を唱えると、今すぐ覚りを感じることができるので教えよう。
※覚りは52段あり、達磨大師でも30段の覚りだったと言われている。(ブッダだけが最上段の覚りをさとった。)
真言の効果には個人差があり、人によっては、真言を唱えようと身構えるだけで気分が高まる人もあるし、真言を唱えながら瞑想に入る人もある。また、真言を唱え終えると、心が晴れ晴れとして智慧が湧き積極的になる人もある。
この真言の意味は、「Go!Go!最高の覚りはもう目の前だ。ほらブッダとたくさんの仏が待っているよ。」
ガテー、ガテー、パーラーガテー、パーラサムガテー、ボーディスヴァーハー
これが智慧の大切な教えである。」