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ツヨシ「仙人さんは、いつも「仏様に手を合わせなさい!」と言われますが、手を合わすだけで商売が繁盛できるのですか?」
仙人「フフッ、いい質問だ。仏に手を合わすだけで商売繁盛できるのだったら、みんな繁盛しているさ。」
ツヨシ「えっ!?嘘だったのですか?」
仙人「嘘じゃないが、手を合わせただけでは商売は成功しない。商売じゃなくてもスポーツだって同じさ。どんなことにも努力が必要だ。」
ツヨシ「それじゃ、仏様に手を合わせても、意味ないじゃないですか?」
仙人「待て待て、(仏教)初心者はこれだから教えにくい。宇宙はすべてに平等なんだよ。平等というのは、努力すれば努力しただけ変化があるし、何もしなければ前へ進むこともできないってことさ。」
ツヨシ「努力さえすれば、公平に結果が生まれるということですか?でも、努力しているのに倒産する会社もあるじゃないですか!」
仙人「いい所に目を付けたな。現実はそこが問題なんだ。人の幸・不幸を左右するものには、3つの力が働いている。一つは行動だ。二つ目は災難(災害)、三つ目は時流だ。」
ツヨシ「もっと具体的に教えてください。」
仙人「わかった。行動すると何らかの結果が出るだろ。一つは良い結果、もう一つは悪い結果だ。ところが、動かないでいると前にも後ろへも進まない。しかし、時間は人の動きには関係なく動いているから、停止している者は置き去りにされるだろう。」
ツヨシ「じゃあ、行動しても、結果はどうなるか分からないし、行動しなかったらダメというんじゃ、どうすれば良いのですか?」
仙人「成功したかったら動くしかないってことさ。ところが、売上が激減すると、冷静さを失ってしまい、「どうしょう、どうしょう。」と血迷う。そんな状態で上手く行くと思うかい?」
ツヨシ「上手くいくはずないです。。」
仙人「そうだろ。でも、周りを見てみろ。上手くいかないからって、その怒りを社会に向けて当たり散らす。他にも「潰れたらどうしょう。」と恐怖から寝込んでしまったり、、人生に行き詰っている人が多い。これが現実だ!」
ツヨシ「たしかに。。ボクにも、そんな所がありますから。」
仙人「こんな時に一番大事なのは、冷静さを取り戻すことなんだ。そのために、一番簡単で効果があるのが、「仏に手を合わす」ことなのさ。」
ツヨシ「なるほどですね。仏様に手を合わすと気持ちが落ち着きますからね。」
仙人「だろ。冷静になってから行動に入るんだよ。気持ちが動揺している状態で行動してみろ。余計に状況を悪くしてしまうだろ。」
ツヨシ「だから、上手くいかない人は、みんな空回りしているのですね。」
仙人「そうだ。心が落ち着いたら、また仏に手を合わす。今度は、一心に仏に対して「智恵をください!」と念ずるんだ!集中すると、必ず仏は智恵をくれる。」
ツヨシ「本当ですか。」
仙人「智恵を授からないのは、一心になってないからさ。心が騒いでいる内は、何をやっても無駄さ。まず、心を落ち着けることをしないといけない。」
ツヨシ「分かりました。」
仙人「冷静になり智恵を授かったら、「何をやれば良いか」が分かる。そうしたら次は、、、「行動」に移るんだ!」
ツヨシ「でも行動したとしても、どういう結果が出るのか分からないのでしょ?」
仙人「だから、仏にお願いするんだ。手を合わせ、「仏の智慧のとおりに行動するから成功させてください。」とな。」
ツヨシ「そうかぁ、仏様の言う通りにするのだから、仏様がほっとけないわけですよね。」
仙人「そのとおりさ。「成功を信じているものだけが成功する。」は真実なんだよ。ここまでが、始めに言った一つ目の「行動」についてだ。」
ツヨシ「そうでした、二つ目の縁は災難でしたね。」
仙人「災難はいつどこで遭遇するか誰にも分からんからな。災難は自分の行動に関係なく、みんなに公平に起きるもんだ。地震や台風は、善い人、悪い人に関係なく襲い掛かるからな。」
ツヨシ「善人も悪人も同じように災難に遭うって、神様は不公平じゃないですか?」
仙人「善を行えば良い結果がおきて、悪を行えば悪い結果がおきるのは、個人の「原因と結果」によるものだ。それと災難は違うんだよ。」
※善因善果、悪因悪果
ツヨシ「なんか、合点いきません。。」
仙人「宇宙はすべてに平等なんだ。善人も悪人も、宇宙全体から見ると、どんな人も生物の一つってことさ。」
ツヨシ「じゃあ、仏に手を合わせても意味がないですね。」
仙人「ふっふ、だから初心者は教えにくい。仏と一体化する(仏に手を合わす)ということは、宇宙に繋がるということなんだよ。だから、仏の心になると、潜在意識が助けてくれるのさ!」
※仏の心とは…慈悲心(人を楽しませたい、人を救いたい、という心)
ツヨシ「どういうことですか?」
仙人「火事場の馬鹿力というのを知ってるか?火事で逃げ場を失っている人を見ると、普段行動できない人でも、助けるために燃えている家に飛び込むことができる。」
ツヨシ「それ、分かります。」
仙人「他人を救おうとすると、とてつもない力が出るんだ。それだけじゃない、慈悲心が出ると、瞬時に智慧が授かり、「こちらへ逃げろ!」と、仏の呼ぶ声を聞く。だから助かるんだよ。」
※六神通…神通力。妙法蓮華経 授記品第六
ツヨシ「災難に遭うのは仕方ないけれど、最小限にできるということですね。」
仙人「そうだ。そして、最後の三つ目の縁「時流」だ。地球は動いているから、地球上には時間が存在する。地球が誕生してから地球は止まったことがないからな。」
ツヨシ「地球の回転が止まったら大変ですよ。」
仙人「地球は止まらないが、調子の良い波と悪い波があるんだ。個人のバイオリズムのようなものが地球にもある。それが時流だ。」
ツヨシ「具体的にはどういうことですか?」
仙人「個人でどう頑張っていても、世界戦争がおきたらどうしょうもない。「商売がどうだ」とか、「人間関係を良くしたい」など、どうでもよくなるだろ?」
ツヨシ「戦争が起きたら、それどころじゃなくなりますね。」
仙人「そうさ。でも、世界中がとんでもない好景気になったらどうなると思う?」
ツヨシ「バブルですね。聞いたことがありますよ。みんな派手な洋服を着てディスコで踊ったり、毎日がパーティーのようだったんですよね。」
仙人「今からは考えられないだろうが、30年前はどこもバブル景気だった!もし今、この時流に乗れたらどんな感じになると思う?」
ツヨシ「それは有難いですよ。ボクのすべての悩みが吹っ飛びますからね。」
仙人「フフッ、世界中がバブル景気になるのは難しいかもしれんが、世界の中にはバブル景気に沸いている所もあるんだ。」
ツヨシ「ホントですか!?」
仙人「ああ、お金は水と同じで、ここのお金が減れば、ある所にはお金が集まっている。でも気をつけないといけないのは、バブルを装う詐欺師だ。しかし、たいてい詐欺に騙される時には、自分の心が汚い時だ。だから同じ縁によって詐欺に遭遇するのさ。」
ツヨシ「そうです。ボクも詐欺にかかったことがあるから、良く分かります。」
仙人「なんだ、詐欺に騙されたのか。。どれだけ金銭的に成功していても、詐欺に騙されて破産したらゲームオーバーだからな。気を付けないといけないなぁ。」
ツヨシ「どうすれば良いのですか?」
仙人「簡単さ、毎日仏に手を合わすんだ。そうすれば、悪魔が入り込む隙がなくなるってことさ。」
ツヨシ「ふ~ん、手を合わすことって、そういうことだったのですね。常に手を合わすようにします!」
仙人「そんなに手を合わさなくても良い。はっはっはっ」
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【今日の学び】
★仏に手を合わす意味…1、冷静になる。2、智慧を得る。3、積極的(行動力)になる。
☆智恵ある行動は、良い結果をつくる。(原因と結果の法則)
★仏に手を合わす習慣の功徳…1、想定外の災難から守られる。2、良い時流に乗ることができる。
☆仏に手を合わすとは…慈悲の心になり、積極的な人間になるため。だから、宇宙から守られて当然だ!
ついに、大好きな彼女とデートをする約束をしました。「どこにデートは行こうか?」、「何を食べようか?」、「何をプレゼントしようか?」と、想像しているだけで、心がウキウキしてくる。※図説「理趣経」入門を参考。
心が、彼女とのデートの方に行ってしまい、彼女のことを考えていると仕事どころではない。帰宅して寝床に入っても、想像すると嬉しくて眠られない。
数日、そんなワクワクする日が続いたが、ついにデートの日がやってきた。彼女にプレゼントを渡すと、満面笑みで、彼女が天使のようだ。
二人で映画を見たが、隣にある彼女のことばかりが気になり、映画の内容が入ってこない。ただ、彼女の側にいるだけで幸せだ!
食事は、いつも行くマクドナルドの店だった。いつものハンバーガーセットが、こんなに美味しく感じたのは始めてだ。彼女と食べるものならどんなものでも美味しい!
デートの帰りに、始めてのキスをした。好きな人とキスをすると、心までとろけそうだ。このまま彼女を帰したくない。別れるのが、これほど切ないと思ったことはなかった。
デートを重ねたある日、ホテルに泊まることに。どちらともなく抱きつきキスを重ねた。この後のことを思ってか、二人とも、キスだけで燃え上がってしまい、中々キスを終えることができない。
抱きついたままベッドに倒れ込み、キスを重ねた。優しく優しくキスをすると、彼女もそれに答えてくれる。胸が熱くなった。
彼女の体を優しく愛撫すると、体の中から愛汁で答えてくれる。私のことを愛してくれているという証だ。こんな嬉しいことはない。
ついに私と彼女は一体になった。彼女を喜ばそうと一所懸命に動くと、彼女も体をひねり動かす。普段の彼女とは違う顔だ。こんな表情は、私だけにしか見せないと思うと、彼女が愛おしくてたまらない。
頭の中が、興奮で何も考えられない。動きを早くすると、「あ~。く~。」彼女は声を出して答えてくれる。私のことを好きだという声だ。これほど嬉しいことはない。
二人の興奮は最高潮に達した。それは一瞬だったが、この世にない喜びの瞬間だ!生きていて良かったという瞬間だ。
(百字の偈)密教は秘密の教えなのでは?
菩薩勝恵者 乃至尽生死 恒作衆生利 而不趣涅槃 般若及方便 智度悉加持 諸法及諸有 一切皆清浄欲等調世間 令得浄除故 有頂及悪趣 調伏尽諸有如蓮体本染 不為垢所染 諸欲性亦然 不染利群生大欲得清浄 大安楽富饒 三界得自在 能作堅固利
密教は「危険?」「悪魔の崇拝?」
密教を信仰することに不安を感じている方のために、『密教』について説明させていただきます。
密教は秘密!
『金剛頂経』には、「密教を教えてはいけない」と書かれています。
「この毘盧遮那の三摩地の法は、まだ灌頂の儀式を済ませていない者に対しては、わずか一字といえども説いてはなりません。もし、本尊のお経や真言など、たとえ同じ教えの仲間であっても、たやすく説いてはなりません。もし、そのようなことをすれば、その人は、この世で若死にし、災いを招いて、死んだ後には無間地獄に落ちるのです。云々。」
※三摩地とは…サマーディ・三昧のこと。仏教やヒンドゥー教における瞑想で、精神集中が深まりきった状態のことをいう。真言密教の修法を三密加持(さんみつかじ)とか三密瑜伽(さんみつゆが)などと言いますが、精神を一点に集中する瞑想(三摩地・さんまじ)のことです。特徴としては、仏(本尊)の身(み)と口(くち)と意(こころ)の秘密のはたらき(三密)と行者の身と口と意のはたらきとが互いに感応(三密加持)し、仏(本尊)と行者の区別が消えて一体となる境地に安住する瞑想を言います。
密教の恐れられる理由が、この金剛頂経の一文です。
要約すると、灌頂を受けていない者には、「身口意の三密加治による瞑想を教えてはいけない。」ということです。
これには理由があります。
瞑想は、ブッダが誕生する以前から、バラモン教(現在のヒンズー教)で行われていました。ブッダも「瞑想」を取り入れて「さとり」を開いたことは有名です。
ブッダの時代には、簡単にできて効果のある三密瑜伽(ヨーガ)が流行し、人間的(魂)成長のための修行をしないようになっていきました。多くの僧侶が、昔のバラモン教に戻る傾向にあったのです。
そのため、ブッダはバラモン教を否定したのですが、三密瑜伽(ヨーガ)の効果だけは否定できませんでした。
その名残りとして、『密教』(大日経・金剛頂経)がありますが、誰でも修法は気軽にできないように戒めたのです。
しかし、『真言・陀羅尼(マントラ)』に関しては、般若心経では「ギャティーギャーティボーディ ソワカ」や、妙法蓮華経陀羅尼品第二十六の呪では「アニ マニ マネ ママネ、、、」と読誦しなさいと説かれています。
※真言は、、元々は、インドのバラモン教(現ヒンズー教)で「マントラ」と呼ばれる呪文でした。
【密教の灌頂儀式は方便の一つ】
このような密教の歴史について、空海が知らないわけはありませんでした。
空海は、著書『秘蔵宝鑰』の中で、金剛頂経の内容について次のように書かれています。
「(密教を)もしありのままに話してみても、信受する力のない人は、かえって仏教に疑惑を起こして、これをそしることになり、しまいにはそういう人々は、仏の性質を永遠に失った人となってしまい、無間地獄に堕ちることになってしまいます。このゆえに、この世の人々を救済するためにブッダ(大日如来の化身)も黙して、密教をあえて説かれなかったのであり、教法を伝える菩薩(ブッダの弟子)たちも、そのままにしてあえて密教を論じませんでしたのも、みな誤解を避けるためでしょう。」
『妙法蓮華経 方便品第ニ』には、次のように説かれています。
「お釈迦さまはこの法華経以外の経典で様々な人に、様々な教え『方便』を説いてこられた。殊に三乗への差別的教えをくつがえし、皆が「一仏乗」へと帰入することが出来る、「人類皆平等」という誠の教え、真実の教えが説かれる。それは「難解)」である、「覚悟して理解せよ。」
密教の形式は、『さとり』の境地へ行くための方便の一つなのです。
三密加治を行うと、瞑想効果が高まるかもしれませんが、何もしなくても『瞑想』ができるようになれば、真言(言葉)や手印(形式)は必要ないのです。
このことについて、空海は著書『秘蔵宝鑰』の中で、
「筏を使って向こう側に渡ってしまえば、筏はすでに捨て去るべきものです。それにいつまでも執着すべきものではありません。」と書かれています。
守破離の最終段階が「離れる」です。
密教が「秘密の教え」という理由には、もう一つあります。
それは、仏教で本来戒められている「性行」や「欲」をすすめていることです。
現在の真言密教では、「小欲を大欲に」「小楽を大楽に」というように、人間の本能を否定するのではなく、「覚り」によって人間的成長を促す教えです。
ところが、密教の仏像の中には男女が交わった尊像もあり、意味を取り違い、僧侶や在家信者が実際の性行為の言い訳にした過去があったようです。
※オウム真理教では、宗教を理由に性行為やポワもあった。
インドにおいてヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰から影響を受けたとされる、男性原理(精神・理性・方便)と女性原理(肉体・感情・般若)との合一を目指す無上瑜伽の行も無上瑜伽タントラと呼ばれる後期密教の特徴である。
男性名詞であるため男尊として表される方便と、女性名詞であるため女尊として表される智慧が交わることによって生じる、密教における不二智を象徴的に表す「歓喜仏」も多数登場した。
無上瑜伽タントラの理解が分かれていた初期の段階では、修行者である瑜伽行者がしばしばタントラに書かれていることを文字通りに解釈し、あるいは象徴的な意味を持つ諸尊の交合の姿から発想して、女尊との性的瑜伽を実際の性行為として実行することがあったとされる。
そうした性的実践が後期密教にどの時期にいかなる経緯で導入されていったかについてはいくつかの説があるが、仏教学者の津田真一は後期密教の性的要素の淵源として、性的儀礼を伴う「尸林の宗教」という中世インドの土着宗教の存在を仮定した。
後にチベットでジョルと呼ばれて非難されることになる性的実践は主に在家の密教行者によって行われていたとも考えられているが、出家教団においてはタントラの中の過激な文言や性的要素をそのまま受け容れることができないため、譬喩として穏当なものに解釈する必要が生じた。しかし、時には男性僧侶が在家女性信者に我が身を捧げる無上の供養としてそれを強要する破戒行為にまで及ぶこともあった。(ウィキペディアより抜粋)
以上のこともあって、性行為の表現が詳しく書かれている『理趣経』は、密教のなかでも特に秘密だったようです。
『理趣経』は、空海が最澄からの頼みを断った経典としても有名です。密教の深い意味が理解できない段階で、『理趣経』を見せると「最澄が誤解する」との恐れがあったと言われています。
密教は一子相伝の教えのはずでは?
※一子相伝とは、学問や技芸などの師が、その奥義、秘法、本質を自分の子どもの中のひとりにだけ伝えて、他の者には秘密にすること。
現在、真言宗の宗派は18宗あり、高野山真言宗の信者数だけでも4,561,680名。密教は一子相伝(秘密)ではなく、多宗派と同様に公の宗教になっています。
【空海までの密教が一子相伝(秘密)だった理由】
全てを明かすと誤解や危険が生じる為に、最初からは全てを明かさずに徐々に師匠から弟子へと一子相伝的に伝えていた。
「如来の秘密」の二点から、密教を一子相伝(秘密)にした理由について説明します。
1、衆生は、仏教の知識に乏しく智慧が伴っていないために、経典本来の意味が理解出来なかった。
2、如来(指導者)は、聞く者の精神力や技術が伴っていないので、難解な密教を教えてしまうとケガをしてしまう恐れがあるので順序だてて教えていた。
代々、天皇家も密教の灌頂儀式を受けていた
密教の即位灌頂は、歴代の天皇から明治天皇以前まで代々伝わっていました。明治に時代が変わる際の神仏分離、廃仏毀釈によって儀式は廃止されましたが、それまで、密教は天皇家でも信仰されていました。
※明治天皇からは、仏教信仰ではなく伊勢神宮参拝が実施されるようになった。
「即位灌頂とは、11世紀ないし13世紀から江戸時代にかけて、天皇の即位式の中で行われた密教儀式で、その内容は秘儀とされていた。一般的には即位式の前に摂関家、主に二条家の人物から天皇に対して印相と真言が伝授される「印明伝授」と呼ばれる伝授行為と、即位式の中で天皇が伝授された印明を結び、真言を唱える実修行為を併せて即位灌頂と呼んでいる。」(ウィキペディアより抜粋)
天皇家が、世間が心配するような「怪しい教え」を信仰するはずがありません。
密教を秘密にしていたのは、時代が影響していた背景があったからです。昔から受け継がれてきた経典には、最初に書いてあるような文章が載っていますが、仏教全体を学ぶと、ブッダの伝えたい真意が理解できると思います。
三摩地(三密)の新解説
密教では、身口意の三業を清浄にすることによって即身成仏が可能になると説きます。
身では印を結び、口には真言を唱え、意では心を禅定にします。
もう少し日常に近づけて表現すると
仏さまと同じポーズ(仏さまの様な行動をとり)で、仏さまと同じ言葉を発し、仏さまの様に慈悲の心に集中する と、言い換えても良いのではないかと思います。
仏教学者の中村元さんは
善とは「人を傷つけず、人の為になることを人の身になって考える」と言われていました。
それが仏道であり、仏道の実践が、日常での即身成仏でもあると思います。
(高野山真言宗 清瀧山 金剛宝戒寺HPより抜粋)